監獄秘話

第9話 監獄を支えた人たち

刑務所は、そこに閉じ込められ管理する側にとっても、管理される側にとってもつらく厳しい世界であった。

刑務官(看守)たちにとって、特に冬の夜勤はつらい仕事だった。網走の冬は、気温が零下20度まで下がる。その中で受刑者を24時間管理し続けなければならないのである。夜勤は2時間交代で行われる。2時間勤務して一時間休み、また2時間勤務につく、その繰り返しである。受刑者が眠っている間も油断は禁物である。 構内を巡視し、冷えきって帰る。カイロを抱いて眠りにつこうとしても、すぐに眠りにつくことはできない。やっとウトウトしかけたころ起こされる。

昔、刑務官の間では、よく『三星』(さんほし)という言葉が使われた。『朝星、昼星、夜星』ともいう。暁に星が輝くころ出勤し、夜空を仰いで帰る。そして、もう一つは梅干しである。梅干しを食えば風邪をひかない、からだにいいというので昼食には必ずついた。看守の仕事のつらさが表現されている。戦時中は食糧も十分ではなかった。

米飯(といっても米4部、麦6部)を食べていたのは受刑者たちだけで、刑務所の職員は一般と同じ配給しか手に入らず、米飯はめったに口に入らなかったという。受刑者に恨まれ、傷を負わされた者も多い。絶えず緊張を強いられ、過酷で、時として命がけの、それでいながら、報われることの少ない、地味な仕事であった。

付録「むしょ」
「5等メシというのは、何も仕事をしないものが食べる。1等メシのマスというのは網走刑務所にしかない。全国で他の1等メシを食べているところはないです。というのは、網走刑務所には伐採がありますから、これは重労働です。等級はご飯の量で違います。重労働ほどたくさんあたる。おかずは1等も5等も同じです。「刑務所から出所した人を“むしょ帰り”といいますね。刑務所の“刑”をとって“むしょ”になったと思っている人が多いんですが、そうじゃないんです。

明治41年に監獄法ができました。その中で決められている当時の囚人が食べるご飯の混合率、『麦6、米4』の、“む”と“し”がなまって“むしょ”になったんです。それで、刑務所という呼称のなかった明治のころから“むしょ帰り”と言う言葉はあったんです。